あの日食べた麺の名前さえ僕らはまだ知らない

2012年06月14日

長台詞を決め込んだ悪夢

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あれは誰かの引っ越しか
それとも何かのメンテナンスだったか

みんなお金なんか持ってないから
何かあると寄り集まった


誰かん家のタンスに登って
数人でひっぱたりたたいたり
ちょいと面倒な作業をしていたときのこと

オレはひどくいらついていたのか
それともそんな質だったのか
今となっては記憶をたどったところで
所詮ウソっぽくなるので避けておくが

センパイを前にどうしたらこうも
口がまわるのか、というほど
いや、今まで生きて来た中で
最も口達者になったがごとくの
ホレボレするような言い回しで
悪態をついた

しかも長台詞を決め込んだ


口を動かしている間のオレときたら
まるで操り人形のごとく
それが何を意味するのか
どう影響するのかなど
考える余地もなかった

いや、それまで、その瞬間まで
波紋なるものを想像したこともなかった


ふと我に返ると
心の底から想っているあの子が
いままで経験したことのない
ずっとしまいこんだままでいい
そう思えるようなあの子への想い

その子を前に
人生最大の悪態をついてしまった

しかも。その子に指摘されるまで
それに気づかない私の愚かさよ。

「あの。しゃべるのやめてもらえますか?」


なんてことをしたんだオレ
どうして見境無しにこんなこと

でも、こんなオレだから
きっと今じゃなくても
いつかしでかしただろう
そしてオレの素性があからさまになって
まっこうから嫌われるんだ

もうおしまいだ





光の向こうに
オレンジ色のドレスを着た
美しい女の子たちがいた

夢か。


醒めた今でも
あれは夢じゃなかったんじゃないか
そう思えて仕方ない

それはもう昔のこと。





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白日夢 橙日夢

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オレンジ色のドレスを着て

凛とした空気のなか
あの子たちは長い手足を優雅に動かし
甘い香を溶け込ませている

人の肌って薄オレンジ色なんだ


こちらの気配に気づくと
こっちに来てよと手を振る

オレンジ色のドレスを着て
まばゆい午後の光のなか
舞台の出番を待っている

夢がモノクロだなんて
誰が云ったんだ
夢がモノクロだなんて
誰が決めたんだ

オレンジ色だよ
あんなに光ってるよ

オレンジ色のドレスを着て
こっちに来てよと
目で合図を送ってくる


人の肌って薄オレンジ色なんだ

ボクはもう何もいらないよ
オレンジ色のドレスのあの子たちが
こうして夢に出てきて
凛とした空気を甘い香と溶け込ませている



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2012年03月22日

ボクには元気のないセンパイが想像できない

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ボクには元気のないセンパイが想像できない(笑。。

でもどうやらボクたちは似ているところがあるんだね。
いや、高校生の頃はたいていの人がそう思ってたのかもしれない..。
そうそう、明るくもなれないだろ、、、
 

センパイが言ってた「大切な記憶」のこと。

記憶が無くなったことを意識していないのなら、まぁそれはそれでいい、というか、仕方ないんだろうけど、消えて行く記憶を嘆きながらただ見ているだけしかできない自分がいたとき、いつかそれを悲しさ抜きで傍観できるような、達観したオトナになれたりするんだろうか。。とか。。


でも、、今のこの私の記憶なくなちゃったら、、悲しい。

ものすごく悲しいと思えるようにはなった。 



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2012年02月29日

ずっと追っかけてたセンパイ。Facebookで見つけた

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天井の高い板張り部屋。

奥の左側にあった水場あたり。
ほんの時々夢に出てくる。

最近見てないな。。


幼少の頃、通っていたおえかき
トミタせんせーんとこ。

ずっと追っかけてたセンパイ
Facebookで見つけた

なつかしい話いっぱい
夢の中だったことが
すこしづつ浮き上がって


本来であれば過去の記憶として
そのまま人生まっとうしただろうに
この世に生きる代償か幸いか

でもセンパイはこう書いてくれた

懐かしい大切な記憶

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2011年10月24日

あの日食べた麺の名前さえ僕らはまだ知らない-6

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としちゃんの話によると
生まれてくる子をアメリカ国籍にするために
向こうで出産するそうだ

 わたしはまだ仕事を担う責任感にも甘く
どうやって生きて行くのかすらおぼつかなく
ましてや子供を生んで育てるなんて
考えたことすら、いや、考えたくもなかった

どうしたらそんな決心ができるのか
想像すらつかなかった


N.Y.で生活することを夢見ていた
英語すらおぼつかないのに
そこに行けば人生の目星がつくかもしれない
そんな浅はかな夢を抱いて
わたしは現実逃避をしていたのだ

予備校で仲の良かったミキオも
N.N.に行ったらしい
ドラッグに溺れて消息不明
そう聞いた。



恵比寿のアパートに会いに行くと
まんまるでふくふくしたあかちゃんがいた
きゃっきゃと笑って手足をぷんぷんさせて
まるでどこか遠くからやってきた
知らない世界の宇宙人にも見えた

こうちゃんはこれまで見せたこともないくらい
ひどくオトナに見えた。
いままで見たこともないくらい頼もしく見えた
あぁ、わたしもこうして誰かを守ってあげられる
そんな人間になれるのだろうか...。
いやきっと一生無理かもしれない


「戻ってこい」

結局こうちゃんは連れ戻したのだ
飛行機に乗って太平洋を渡り
アメリカで生まれるはずだった子は
こうちゃんのその一言で
生粋の東京人としての人生を歩むことになった





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2011年06月14日

あの日食べた麺の名前さえ僕らはまだ知らない-5

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寝床にしていた三島ビルは
伊勢佐木町の一本裏にある
親不孝通りにあった

6畳に床の間
3畳程度のキッチンと風呂場のついた
古いアパートで
水商売を引退したおばちゃんやら
薄暗い荷物いっぱいの部屋で
ひとり肩をすくめ丸くなって
じっと一日中動かないおじさんやら
不思議な住人のアジトだった。

なぜ部屋の中のおじさんの様子が
手に取るように分かるのかといえば
終日、玄関のドアを開けているので
イヤでも目に入るというわけだ

前の生命保険会社のビルの1Fには
ドレミという名のナイトクラブがあり
客引きのおじさんは毎日元気に
声をかけてくれた

 
この日もニチオが遊びに来ていて
というか、毎日いたりするのだから
いわば住人である

「小金持になろうよー」

ニチオがそう持ちかけて来た

聞けば来日中のデビッド・ボウイのデスマスク
(フェイスマスクとでもいうのだろうか)
を石膏どりしたという

このボウイのデスマスクを大量に作って
売ろうじゃないか、というのだ

小金持になった気分の私たちは
あれやこれやと夢や希望や
ガラクタめいた話で盛り上がり
それじゃあ、まずはこーちゃんに
話をふってみよう、ということになった

328には芸能人やらあやしいひとたちが
行き来しているので
きっと話に乗ってくれるだろうと


そうして私は電話をした
云わずと知れた口べたゆえ
何度となく電話でのやりとりを練習した

「もしもしーこうちゃんー?
あのさーデビッド・ボウイの
デスマスクいらない?」

当時、三島ビルには電話がなかったので
電話をするのは実家が近い私がやれ、と
そういうことだ

何度も受話器を置き
さんざん迷った末、ようやく電話をした


こーちゃんはすぐに電話に出た

「デビッド・ボウイのデスマスクいらない?」

「いらないー」


あれだけ長い時間をうろうろ彷徨い
会話はあっけなく15秒で済んだ

翌朝、三島ビルで待つ二人に
さっそく訊かれた

「こーちゃん何て?」

「いらないって」

ただそう答えた。

寝付けなかった夜
白紙の原稿用紙で100枚以上は
話したいことがあった

でも何も口に出てこなかった








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2011年06月13日

あの日食べた麺の名前さえ僕らはまだ知らない-4

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今となっては、いつ初めて出会ったのか
実のところ、よく覚えていない

その頃のこーちゃんは霞町にある
「328」という店で働いていた

横浜から東京へ遊びに行くと
必ずこーちゃんのところに寄って
何をするわけでもなく
ずっとカウンターに座って
彼が働く姿をぼーっと眺めていた

何の話もすることなく
ただ座っている口べたな私に
話しかけるわけでもなく


置いてある食べ物は
ベビースターラーメン

他の物は一切置いていない
ベビースターラーメン祭りだ

お金を殆ど持たない私たちの
いわば「東京の味」ともいえる

「こーちゃん、お腹空いたー」
とカウンター越しにねだると
このベビースターラーメンが出てきた

東京に飢えていた私たちは
この日も新しく出来た
「ピテカントロプスエレクトス」
(通称「ピテカン」)
という店に行こうと
ここ東京にやってきた

しかし結局、ピテカンにも
他の店に行くことも
一度たりとももなかった

こーちゃんの店に寄ったなら
「そんなつまらん店には行くな」
と阻止されるからである

「貧乏人はここにいればいい」

というのが彼の弁である

「おもしろいところないー?」
と聞くと「ない」という

結局僕たちは328で
一度たりともお金というものを
払ったことはない

いつもお腹を空かせ
いつもどこかイライラしていた

いつもどこかにおもしろいものが
あるんじゃないかと探していた









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2011年06月10日

あの日食べた麺の名前さえ僕らはまだ知らない-3

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あのころのぼくらは
どんなに狭い寝床でも
餃子みたいに並んで寝た

KIRINケースを積み上げて
上に一人用の布団を敷いた
あまりにも簡素な寝床

時には横に並んで4人5人でも寝た
時にはその上に猫が乗ってきたり


狭い部屋では皆がどうにか
折り合いをつけながら
どうにか生活をするものだ

それを苦痛と思うか
冒険と思うか
それは人それぞれ

少なくとも私は
その空間が今でもなつかしい

そう、わたしたちは
まだ定職すらない
迷える若者のひとりだった

毎日が重苦しく
どこか刺激的だった



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2011年06月08日

あの日食べた麺の名前さえ僕らはまだ知らない-2

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としちゃんは横浜に来ると
数日で帰ったり
時には数ヶ月いることもあった

でっかいアーミーバッグを肩に担いで

「辞めてやったっ!」

と大声で入ってきた


お金に余裕があるときは
としちゃんのオゴリで中華街に行った

500円のランチで11時ごろから
夕方までずいぶんと粘ったものだ

ジャスミンティーのポットに
ずっとお湯を足してくれた
お店の人は嫌な顔ひとつしなかった


中華街はわたしにとって
最も近い安堵の土地
小さい頃からずいぶんと
親切にしてもらった

ちょっと変わっていたからって
誰も気にする人はいなかった




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2011年06月06日

あの日食べた麺の名前さえ僕らはまだ知らない

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海員閣のおばちゃん
何も変わってなかった

やっぱり商売やってると
いつまでも若いって
ほんとうだよな

と思えるほど
何も変わってなかった

豚バラそば800円ナリ


前を通りかかるたび
待つ人の列の長さに
あきらめてたけど
この日は奇跡的にすんなり入れて

いちばん人気の牛バラそばは
品切れだったけど
豚バラそばも変わらずおいしかった


初めて海員閣に来たのは
もう20年以上も前のこと

札幌から遊びに来ていた
としちゃんと三人で食べたっけ

わたしまだ横浜の実家に住んでいて
橋本にある大学に通っている最中だった

みんな若く
まだ職業さえ決まっていなかった


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