サッカーとか
2010年07月31日
2010年07月19日
松井の名前を何度も叫べる歓びはまたやってくるのだろうか
「駒ちゃんや闘や、ヨシトとかとは、『やってやろう』ってよく話をしていた」と、帰国後のインタビューで松井が云った。
松井、大久保、駒野、阿部、今野、そして闘莉王。「アテネ経由南アフリカ行き」を実現させた6人だ。アテネオリンピック当時、山本監督は「アテネ経由ドイツ行き」というフレーズを口にし、選手たちを牽引したのだが、最終的にそれを実現できたのは駒野ひとりだった。やり残したことを遂げるためにも、何がなんでも決勝トーナメントに行かなければならなかった。
結果的に、足掛けで6年もかかったが、世界的な大会で自分たちなりに動けた部分があったことは、ほんとうに良かったと思う。
結果的に、足掛けで6年もかかったが、世界的な大会で自分たちなりに動けた部分があったことは、ほんとうに良かったと思う。
松井が楽しんで試合をしている。
この瞬間をわたしは待っていたんだ。そう思った。
2010年07月18日
この国立の夜から彼らが戻ってくるのを待っていたのかもしれない
2004年7月30日。
U22サッカー日本代表チームの壮行試合。このあとアテネに旅立った。
わたしはあの国立での夜以来ずっと、チームが帰ってくるのを待っていたのかもしれない。
2010年6月。南アフリカの地で戦う日本代表を見て、アテネのときのチームを思い出した。
松井が独特の動きで躍動し、ヨシトが熱く泥臭くプレイする。阿部ちゃんが、駒野が身体を張って、、、闘が吠える。あっ、今ちゃんもいたね(笑)。そんな活躍を夢見て、私たち、アテネに懸けていたんだよね。闘なんか、決勝トーナメントに出るのを予測して大量のDVDを持って行った、ってニュースで云ってたっけ(笑)。
本来であれば、今回のこの働きをアテネの時点で出せたらよかったのに、と思うのだが、時とタイミングというのは計り知れない。満を持して、ということばがあるように、あのときは、きっとまだ準備できていなかったんだろう。6年経った今となっても、あのときの無念さが残っているとは、、、それだけに初戦のカメルーン戦を見ているときは、まるで夢を見ているようだった。松井が楽しそうに踊っている。これはいける!と。
谷間の世代などと云われ、軸の部分で弱っちいチームだったけど、試合ごとにじわじわと上がっていったから、観ているほうも本番への思い入れがひときわ高かったのかもしれない。でも、一度たりとも思いっきりプレイすることなく終わってしまったアテネ..。無念すぎる結果、現実を受け入れなければならない。このときほど「あぁ、このチームの試合を観ることは、もう二度とないんだ、、」と思ったことはない。
決勝リーグパラグアイ戦のPKで、駒野が失敗したとき旅が終わった。でもそれと同時に「ちゃんとしないと駒野がもっともっと悲しむ」とも。だから、、ということじゃないのだろうけど、その瞬間の直後は冷静にしていたかった。
でも、松井が駒野を携えて泣いているのを見て、、、どうにもこうにもいられなくなった。闘がベンチで呆然としている。
もう、すべてが終わりだった。また4年、と思うと気が遠くなって何も考えられなくなった。
つづく。